19都府県で、2027年度入試までに、公立高校入試で使用される調査書(内申書)から
「出欠日数」の記載を削除する方針が打ち出されたようです。
<高校入試の内申書「出欠日数欄なし」に 19都府県、不登校生に配慮>
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そもそも国は、公立高校入試において、
中学の出席日数のみで有利・不利といった差が出ないよう通達を出しています。
しかし、実際に内申書に「出欠の記録」が記載されているということは
実は何らかの影響があるのではないかという
生徒さん・保護者さんの疑心暗鬼を生み出していました。
合否の判断基準に関係しないのになぜ記載するのかという声は以前からあり、
特に不登校生にとっては確かに気になるところですよね。
合否に関係するかどうかは別として、「出席日数」は長らく、
子どもの勤勉さや学習への主体性を示す分かりやすい指標とされてきました。
しかし、今回の動きは「出席している=学んでいるとは限らない」という
教育の根本的な事実を、社会的に認める一歩でもあると思います。
同様に、生徒の責任感や思いやりなどを評した「行動の記録」や「性別」も
合否に関係ないとして内申書から削除する動きが全国的に進んでいます。
ここから、私たちは塾経営においてどんな学びを得るべきでしょうか。
1度立ち止まって考えてみたいのは、教育現場では、教師(講師)も保護者さんも
「見える努力」に安心する傾向があるということです。
毎回きちんと通う、ノートが整っている、発言が多い――
こうした外的な行動は、大人にとって「この子は大丈夫」というシグナルになります。
しかし、心理学的な研究によると、外向的な子ほど教師から高評価を得やすい一方で、
学力や創造的思考力との相関は必ずしも高くないという指摘があるそうです。
つまり「反応がよい子」「目立つ子」が必ずしも“深く学んでいる子”ではないということですね。
「そのように見せる(演じる)」のが上手な、器用な子もいます。
個別指導塾でも、この構造はしばしば見られるのではないでしょうか。
毎回欠かさず通う生徒さんや、自習室を積極活用する生徒さん、
講師に質問を多くする生徒さんが「意欲的」と見なされる一方で、
静かに考え込むタイプや、理解に時間をかけるタイプは「受け身」と誤解されがちです。
しかし、学びの質を決めるのは声の大きさではありません。
重要なのは、どれだけ深く考え、どれだけ自分なりに試行錯誤しているか、
そしてどれだけ大人がそれに気付くことができるかではないでしょうか。
では、どうすれば「静かな努力」を見逃さずに支援できるのでしょう。
一つのカギは「観察」ではなく「対話」にあると思います。
観察は表面をなぞりますが、対話は内面を掘り起こすものだからです。
例えば、授業の最後に
「今日、どの瞬間に『分かった』と感じた?」「もう一度やり直すとしたら、どこを変える?」
などと問いかける「リフレクションタイム」を設けるのはどうでしょう。
声に出すことが苦手な生徒さんなら、ノートに一言書くだけで構いません。
このわずかな習慣が、「自分の中の学びを言語化する力」を育てます。
講師側も、生徒の「気づきの痕跡」を通して内面的な成長を実感できるでしょう。
この動きは教育学でいう「メタ認知的支援」にあたります。
メタ認知とは、学習者が自分の理解や思考過程を客観的に理解し、
モニタリングする力のことです。
自分はなぜそう考えたのか、なぜ間違えたのかなどを、
もう1人の自分が上から見下ろしているような感覚で、
自覚できている状態と言えば分かりやすいかもしれません。
この力が高い生徒さんほど、学力の伸びが安定するという研究は多くあります。
つまり、「外的行動に表す力」ではなく「考えを自分で振り返る力」を育てるほうが、
長期的には学びの成果が高くなる可能性が高いということです。
講師はどうしても「反応がある生徒さん」「意欲的な生徒さん」に好感を持ちやすいものです。
人間である以上それは自然な心理ですが、教育は人気投票ではありません。
静かにノートを見つめ、何度も同じ問題に挑む生徒さんの努力を見抜ける講師こそが、
真のプロフェッショナルなのではないかと思います。
そのためには、講師研修のあり方を再考してみるのも一つの手かもしれませんね。
例えば、生徒さんの「リアクション」ではなく、
「思考の変化」や「粘り強さ」を観察し記録する習慣を持たせるなどです。
講師が授業後に、その日の生徒さんの小さな成長を簡潔に共有する
「一言レポート」などを導入するのもよいでしょう。
「前回間違えた問題を自力で修正できた」
「質問をためらっていたが、今日は自分からノートを見せてくれた」――
こうした見えにくい成長を言語化する仕組みが、講師間の認知の偏りを減らします。
今回見られた出欠欄の廃止は、単なる記載項目の削除ではありません。
それは、「学びの努力がすべて表面化するわけではない」という教育の原点を、
制度が再確認したということです。
子どもたちは、塾に来ない日にも何らかの形で日々経験と学びを重ねています。
塾ができるのは、それらの「過程」を受け止めることです。
一概に「授業を休みがちだから」「自習室に来ないから」やる気がないという
フィルターで見てしまうのは、拙速かもしれません。
講師がその姿勢を貫けば、子どもは「見られていない部分も大切にされている」と感じ、
自分の学びを信じられるようになると思います。
結局のところ、教育の質を決めるのは制度ではなく文化です。
出欠欄の有無が変わっても、私たちが「見えるものだけを評価する文化」を
変えなければ意味がありません。
塾という小さな教育共同体ができることは、
「声が小さい子」「ゆっくり学ぶ子」「迷いながら立ち止まる子」を、焦らず見守ることです。
それは経営的な即効性を持たないかもしれませんが、
見えない努力を信じる文化を育てることこそ、塾の価値になるのではないでしょうか。
【今回のまとめ】
・目に見えるものだけで、生徒さんの内面を判断しない
・見えない努力や成長を見つけ、ポジティブな評価ができるように意識しよう
