子どものSNS利用をめぐり、利用年齢を制限することの是非が議論されています。
<SNS事業者の規制強化へ 年齢制限は議論継続 こども家庭庁>
https://mainichi.jp/articles/20260730/k00/00m/100/037000c
海外では、年齢を基準としてSNSの「利用禁止」によって規制する動きが強まっていますが、
現在のところ日本ではSNSそのものの安全な環境整備に力を入れている形です。
確かにSNSには、依存や誹謗中傷、犯罪被害など、
子どもを守る立場から見過ごせないリスクがあります。
一方で、リンク記事でも指摘されているように、
学校や家庭に居場所を見つけられない子どもにとって、
SNS上のつながりが大切な居場所になっているケースもあるでしょう。
これはどちらも正しいと言えるわけで、禁止してもしなくても、
双方にメリットもデメリットもある状態だと言え、判断が難しいところですよね。
ここで考えてみたいのは、教育において、私たちは短絡的に
「これは子どもに良い」「これは悪い」と決めてしまってはいないか、ということです。
SNSで言えば、子どもたちが危険にさらされる可能性と、
つながりや援助を支える可能性が同居しています。
つまり、「SNSは良いのか、悪いのか」という二項対立そのものが、少し乱暴なのです。
これは塾の現場にも、意外なほどたくさんあります。
例えば「競争」です。
模試の順位や定期テストの好成績者を掲示すれば、
それを励みにして「次はもっと頑張ろう」と思う生徒がいます。
競争があることで、自分一人では出せなかった力を発揮する子もいるでしょう。
一方で、順位を見るたびに「自分はできない」と感じ、
勉強そのものから距離を置いてしまう子もいます。
では、競争は良いのでしょうか、悪いのでしょうか。
決められるわけがないですよね。
「宿題」も同じです。
家庭学習の習慣がない生徒にとっては、毎週決まった量の宿題があることが、
学習のペースをつくるきっかけになるかもしれません。
しかし、部活動や家庭の事情などで自由に使える時間が少ない生徒にとっては、
同じ宿題が「塾に行くとまた課題を出される」という負担感につながる可能性があります。
「厳しい指導」もそうでしょう。
ある生徒にとっては、
「先生が本気で叱ってくれたから、自分も本気になれた」という経験になることがあります。
しかし別の生徒にとっては、「失敗したら怒られる」という恐怖になり、
委縮や感情的反発を招いてしまうかもしれません。
さらに、言い出してしまえば塾の形態さえその俎上に上がります。
「実社会は競争に満ちているのだから、集団塾で鍛えることが正しい」と言われても、
その環境に馴染めない生徒さんがいるから個別指導塾が存在するわけです。
逆に「学びは個別最適化すべきで、個別指導こそあるべき姿」と言われても、
周りの人との多様な関わりがあるからこそ人間は伸びるというのもまた真理です。
そう考えると、塾経営において重要なのは、
「良い教育を提供するために、良いものを選ぶ」ことだけではなくなると思います。
一つのものが、子どもによって違う作用をすることを
知っておくのが大切なのではないでしょうか。
これは個別指導塾にとって、特に重要な視点だと思います。
例えば、ある生徒さんの成績が下がってきたとしましょう。
「もっと演習を増やそう」という判断は、一見すると合理的です。
勉強量が不足しているなら、勉強量を増やせばよいと考えるのは自然です。
しかし、その生徒さんにとって問題なのは「勉強量」ではなく、
「失敗することへの不安」かもしれません。
演習を増やすことで学習量は増えても、
勉強そのものから逃げるようになる可能性があります。
逆に、演習を減らしたことで学習量は一時的に減ったとしても、
「これなら自分にもできる」と感じ、自分から勉強する時間が増えるかもしれません。
もちろん、だから演習を減らせばよいという話ではないですよ。
繰り返しになりますが、重要なのは、
同じ手段がその子にとって何をもたらしているのかを見ることです。
こども家庭庁は、SNSの規制をめぐっても
「子どもにとって居心地のよい居場所を、大人が勝手に決めるべきではない」
という見解を示しています。
それと同じで、塾側が「これが良い」と思っても、
子ども本人にとってそうとは限らない場合もあるのです。
ここには、個別指導塾ならではの難しさと可能性があります。
個別指導では、一人ひとりを見ることが価値として期待されていますよね。
だとすると、「一律によい(と私たちが思う)ものを与える」平等さよりも、
「その子にとって何がどう作用するかを見る」も公平さが求められているとも言えます。
そして、もう一つ考えたいのが「子どものため」という言葉です。
塾に限らず教育界全体で、
この言葉を出した時点ですべてがまかり通るような風潮ってあると思います。
「成績を上げるため」「学習習慣を身につけるため」「将来困らないため」……
こうした目的を掲げれば、
子どもたち自身に多少の負担を求めることも正当化できそうに思えます。
しかし、目的が正しいことと、そのために選んだ手段が適切であるかは別問題です。
例えば「苦手単元を重点的に指導して、弱点を克服する」のは、
塾として自然な発想だと思います。
ところが、苦手な単元ばかりを毎回のように勉強させられると、
「塾=苦手なことをやらされる場所」と感じてしまう生徒さんもいるでしょう。
その結果、苦手克服には近づいても、
勉強そのものへの意欲は下がってしまうかもしれません。
教育では、こうしたトレードオフがいたるところにあります。
優しく寄り添えば安心は増えるかもしれませんが、自律する機会は減るかもしれません。
厳しく管理すれば規律は保てるかもしれませんが、関係性は失われるかもしれません。
だからこそ、私は「これは子どもにとって良いことだから」と考えたときほど、
一度立ち止まることが大切なのだと思います。
「この方法によって、何が良くなるか」だけでなく、
「その代わりに、何が失われるだろうか」という視点を持ちつつ、
「それは、すべての子どもに同じように作用するだろうか」と問い直してみるのです。
個別指導塾だからこそ、「これは良い教育だ」と決めた瞬間に、
目の前の一人の子どもにとっても本当にそうなのかを、もう一度考えてみたいものですね。
【今回のまとめ】
・あらゆる教育活動に内在するトレードオフに目を向ける
・自分の感覚だけで「良い・悪い」を決めつけない
