「先生、電卓で計算すれば一瞬なのに、どうしてわざわざ自分で計算するんですか?」
生徒さんからそう聞かれたら、あなたなら何と答えますか?
先日、日本学術会議が公表した算数・数学教育に関する見解で、
「全国学力テストや定期考査で、電卓やアプリなどの使用を認める問題を導入すべき」
という考えが示されました。
それらを「思考ツール」として授業に位置付け、デジタルツールの活用を促す一方で、
テストでは使用を認めないという矛盾にもメスを入れる考えです。
<数学の定期テストで電卓・アプリ使用も…日本学術会議>
https://reseed.resemom.jp/article/2026/09/07/14072.html
このニュースから「そういう時代になったか」と思うのは簡単ですが、
私は、もっと学びに対する本質的な意識転換が求められていると感じます。
デジタルや機械を使えばすぐに答え(結果)が出せるのに、
なぜわざわざ人間が手計算で答えを導き出す必要があるのか、という視点です。
数学だけではないですよね。
漢字を覚えることも、スマホなら分からない漢字もすぐ変換できます。
英語なら、翻訳アプリを使えば外国語の文章を日本語に訳してくれます。
歴史の年号も検索すれば数秒で確認できます。
理科の用語だって、AIや動画が詳しく説明してくれます。
そうなると、子どもたちから冒頭のような疑問が出てくるのは自然です。
「検索すれば分かるのに、どうして漢字を覚えなきゃいけないの?」
「翻訳アプリがあるのに、英単語を覚える必要なんてないじゃないか」
以前なら「入試に出るから」「テストではスマホを使えないから」と
答えることができたかもしれません。
しかし今回の日本学術会議の見解は、
「テストでも使用可とする問題を導入しよう」というものです。
加えて近畿大学は、総合型選抜でAIによる資料作成を認める方針を示しました。
もう「試験に出るから」では通用しないんですよね。
しかし、仮に「試験に出るから」という理由が通用したとしても、
それだけでは、学ぶことそのものの意味を説明したことにはなりません。
そういう建前や方便はいったん置いておいて、
「できること」と「学ぶこと」を分けて考えてみる必要があるのではないでしょうか。
例えば数学なら、電卓が「248×0.8=198.4」という答えを出してくれます。
しかし、その198.4という数字が問題の状況に照らして妥当なのか、
そもそも「0.8を掛ける」という操作が何を意味しているのかまでは、
電卓が判断してくれるわけではありません。
あくまで計算をしただけであって、その計算の意味や目的を電卓は考えないということです。
国語で、漢字の「憂鬱」という字が読めなかったとしましょう。
Googleレンズなどで検索すれば、正しい読みや表記はすぐに分かりますが、
「だから漢字を覚える必要はない」と言えるでしょうか。
文章を読んでいる途中で「憂鬱」という言葉を読むことができれば、
意味を調べなくても文脈を理解できます。
頭の中に一定の語彙があるからこそ、文章全体の意味を素早く把握できるのです。
英語も同じで、翻訳アプリは英文を日本語に変換できますが、
英文を読んだ瞬間に「この人は皮肉を言っている」「ここは重要な条件を示している」と
読み取ることができるのは、単語や文法について自分が理解できているからです。
翻訳された日本語を見てから考えるのと、原文を直接読んで考えるのとでは、
思考のプロセスも変わってきます。
もっと言えば、生成AIにおいて、AI内部でどのようなアルゴリズムが機能しているか、
仕組みを正しく把握できている人は少数だと思いますが、それと同じです。
仕組みを自分で理解しないまま、
「すぐ答えを出してくれる便利な機械」というだけの認識でAIに接しているから、
ハルシネーション(もっともらしい誤情報)を
頭から信じ切ってしまう子どもたち(大人も)が出てくるのではないでしょうか。
ここに、学ぶことの一つの意味があると思います。
デジタルツールによって「情報を得ること」が簡単になったとしても、
「その情報をどう理解し、どう使うか」まで自動的にできるわけではありません。
知識や技能は、必ずしも「自分で全部処理するため」に身につけるものではなく、
自分の頭で考えるための土台としての意味もあると思います。
だからといって「デジタルツールに任せてはいけない」と考えるのも違いますよね。
例えば数学で、電卓による計算をするとして、
数値を変えると結果がどう変化するのかを観察することができます。
そこから規則性を予想し、別の例で確かめるような使い方ができれば、
電卓は「考えることをサボる道具」ではなくなるでしょう。
人間が手計算に費やしていた時間を減らし、
その分だけ「結果から何が分かるのか」を考えるための道具になります。
ニュースリンク内で日本学術会議が
「思考ツール」という表現を用いているのも、この発想です。
これをふまえて個別指導塾が考えたいのは、
「生徒さんが何を自力でできるようにするべきなのか」ではないでしょうか。
例えば、辞書を引くことと単語を覚えること、電卓を使うことと計算力を身につけること、
翻訳ツールを使うことと英語を学ぶこと。
これらは、「どちらか一方が正しい」という関係ではありません。
「これは道具に任せてもよい」「これは自分で身につけておいたほうがよい」という判断を
自塾なりの基準を持って明確に言語化できることが大事だと思います。
そう、「なぜ電卓で計算しちゃいけないの」と聞かれたときの貴塾なりの答えが、
ここに出てくるということです。
個別指導では、こうした問いを生徒さん一人ひとりに合わせて考える余地がありますよね。
例えば、計算が苦手な生徒さんであれば、まず自力で計算する経験を積ませる一方で、
ある程度の技能が身についたら、電卓を使って複雑な数値を大量に処理し、
その結果について考えさせるといった流れです。
英語なら、基本的な単語や文法を身につける段階では自力で読ませ、
ある程度読めるようになったら翻訳ツールなども利用し、
「自分の翻訳と機械の翻訳はどこが違うのか」と比較してみることもできるはずです。
つまりデジタルや機械を使うか、使わないかが目的ではなく、
道具を使うことで、何を考えられるようになるのかという視点が大切なのだと思います。
塾が生徒さんに「勉強する理由」を説明するときにも、
「将来使うから覚えよう」という説明だけでは、
実際にその知識を使う場面がなければ説得力がありませんし、
「入試に出るから」という説明も、入試が終われば目的を失ってしまいます。
しかし、
「知識そのものを持っていることだけに意味があるのではなく、
その知識があることで、別のことを考えられるようになるんだ」
と伝えることができれば、学習の意味は少し違って見えてくるのではないでしょうか。
知識は「答えを出すための道具」であると同時に、
「自分の目で世界を見るための道具」でもあるわけです。
「道具がこれだけ賢くなった時代に、私たちは子どもに何を身につけてほしいのか」
「その力を身につけるために、あえて自分でやらせるべきことは何なのか」
「すべてを自力でできるようにすることが教育なのか」
道具に任せられることと、自分の頭で考えるべきことを
見分けられる人間でありたいところですね。
【今回のまとめ】
・試験で電卓が使える時代に、学ぶ意味をどう伝えるか
・道具を使ってよい場面と、そうでない場面の違いを、自塾なりに説明できるように
