以前にも取り上げたテーマですが、昨年末のリリースされたニュースから。
<公立高校入試 部活動の評価基準や配点を公表は3県のみ 文科省>
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221227/k10013936111000.html
部活動が何らかの形で高校入試の評価に影響しているのは公然の事実ですが、
内申書内で何をどのように評価しているのか、基準は基本的に公開されておらず、
受験生や私たちから見ればブラックボックスです。
この調査によると、明確に公表しているのは青森、千葉、兵庫のみ。
残りは「公表していない」が40道府県、
もしくは「部活動を内申書での評価対象にしていない」(岩手、東京、神奈川、島根)
という結果でした。
特に受験生が気になるのは「公表していない」としている40道府県が、
「総合的に判断する際の資料として活用している」という、
なんともつかみどころのない指針を示していることでしょう。
そのため、部活動がどのように評価されるのか分かりにくく、
受験で不利になることを恐れて退部できなかったり、
過度に部活動に時間を投じないといけなかったりといった問題が発生しています。
確かに、部活動の主旨は教育的活動として位置付けられていますから、
それを受験において「評価」すること自体はあっても良いでしょう。
しかし、もっと根本的な面で考えれば、
受験のために部活動をやること自体が歪んでいると見ることもできます。
受験のために、やりたくもない部活に加入したり、辞められなかったりというのが
「教育的」かと言えば、私はそうは思えません。
単に子どもたちを縛り付ける足かせにすらなっているように感じます。
そもそも、子どもたちが部活動に加入するとき
「受験のために」という動機で参加する子がどれだけいるのでしょうか。
文化部でも運動部でも、その競技などがシンプルに「好き」だったからのはずです。
それを楽しみたくて、部活動に入ったのだと思います。
しかし、楽しみたくて入ったはずの部活が、受験において評価の対象となると、
そうはいかない部分も出てくるのは事実でしょう。
好きで始めたはずの部活動も、嫌いになってしまうかもしれません。
加入しない自由も含めて、もっと純粋に部活動を「楽しめる」ようになって欲しいですね。
そう考えると、勉強にも同じことが言えるかもしれません。
勉強は、受験のためにやっているのでしょうか。
本質はそうではないことは、私たちは誰もが知っているはずです。
しかし現実的には、そうなっていない部分も多いでしょう。
学校では定期的に試験があり、成績によって序列が作られ、
少しでも点数を上げることを強制される……
塾に行けば、受験対策と称して「テクニック」を叩きこまれる……
やりたくないと思っても
「勉強という辛いことを乗り越えることで、人間的に成長する」などという
もっともらしい方便を聞かされる……
そもそも、「勉強は辛いもの」というスタンスで、
私たち大人が接していることに問題があるのかもしれません。
できなかったことができるようになったり、知らなかったことが分かるようになったり、
部活動も勉強も、本来は楽しいことのはずなのです。
子どもたちに限らず、学ぶ楽しさを知っていれば、人はやらされなくても勝手に学びます。
必要であれば努力もします。
ところが実際は、楽しむことを奪われて苦役として勉強が課され、
教えてもらえるのはその苦役を乗り越えるためのテクニックや激励くらい。
それで受験を突破する子もたくさん出てくるでしょうが、
そう考えると、私たち塾がやっていることを「教育」として捉えたとき、
そこにどんな意義があるのだろうと考えてしまいます。
もちろん、塾が間違っているとか不要だなどと言いたいのではありません。
塾をひとつのビジネスとして考えた場合、顧客が成績向上や志望校合格を求め、
塾がその需要に対して結果を供給するという利害関係が成立しているのですから、
商取引として何もおかしくないと思います。
でも、もっと「学ぶことを楽しめる」ために、
塾ができることってあるんじゃないかなと思うのです。
最近増えてきた探究学習系の塾さんなどは、そうしたスタンスかもしれませんが、
私たち「学習塾」でもやれるアプローチがあるはず。
あいにく私もすぐには「じゃあこうしたらいい」という正解を持っていません。
でも、その意識は持っていたいなと思うのです。
2023年が到来し、受験シーズンも間近です。
どの塾さんも「対策」まっさかりでしょう。
そんなときだからこそ、あえて「塾で学ぶ意義」にも思いを馳せ、
新年度に向けて、単なる商取引でない学びのやり取りも目指してみませんか。
【今回のまとめ】
・勉強するのは受験のため?
・「勉強は辛いもの」という前提から離れて考えてみよう