PISAの学力調査の最新結果が発表されましたね。
<日本の15歳、学力高いが好奇心低く 数学と科学は世界5位・読解4位>
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD019RF0R00C26A9000000/
日本は、調査対象となる「読解力」「科学的応用力」「数学的応用力」の3分野すべてで
トップ級の成績を収めました。
一方で、PISAの結果が出るたび話題となるのが、
日本の子どもたちはこれだけ高い学力を維持しているのに、
「なぜ30年も経済停滞しているのか」「なぜ世界的イノベーターが生まれないのか」
という議論です。
もっと言えば「だから日本の教育はダメなのだ」という意見まで散見されます。
塾経営者さんの中にも、この結果をもって、
自分の教育活動にジレンマや疑問を感じる人がいるかもしれません。
しかし、経済発展や革新に寄与する若者を育てることは確かに大事でしょうが、
さすがに「日本の教育はダメ」というのは極論ではないかと思います。
PISAが測っているのは、15歳の生徒が数学・読解・科学に関する知識や技能を
実生活に近い課題で活用し、推論する力です。
これは創造的な活動やイノベーションにとって重要な土台になりますが、
「問題を解く能力」と「問題を発見する能力」は、同じではありません。
例えば非常に優秀な数学者がいたとしても、
「この社会には、そもそもどんな問題があるのか」と問いを立てることは
数学のテストとは別の能力です。
さらに、アイデアを思いついたとしても、それを実際に形にするには、
失敗への耐性、他者との交渉、資金を集める力、組織を動かす力、
既存の制度を変える力などが必要になります。
したがって「経済発展が滞り、イノベーションも起こせない→日本の教育に問題がある」
という因果関係を、PISAの結果だけから導くことはできません。
大切なのは「学力の高さ」と「経済的生産性」「イノベーションを生み出す力」を
いったん切り離して考えることではないでしょうか。
そこで本質的に考えてみたいのは、
「そもそも経済活動や革新力だけで学力の価値を測っていいのか」という論点です。
高い生産性やイノベーターを生まない教育は失敗なのか、と言い換えることもできます。
仮に、
PISAは世界トップクラス
↓
でも起業家が少ない
↓
イノベーションランキングが低い
↓
日本の教育は問題だ
という論理を採用すると、
教育の価値を経済成長への貢献度だけで測ることになりますよね?
しかし、学校で数学を学ぶ意味は、
「将来、起業してGDPを増やすため」だけではありません。
数学を通じて、論理的に考えたり、根拠と推論を区別したり、
複雑なものを構造化したり、他者の論理を理解したりといった力を
身につけること自体に価値があります。
それは他教科でも同じで、一人の人間がより自由に世界を理解し、自分で判断する、
豊かな人生を生きていくための能力とも言えるはず。
つまり「よりよく生きる」、ウェルビーイングに学びの価値を見出す発想です。
もちろん、イノベーターという存在は素晴らしいものですが、過度にそれを絶対視したり、
すべての子どもたちが目指すべき理想の姿として捉えたりするのは
ちょっと立ち止まって考えてみたいところでもあります。
例えば、「GAFAを生む国」「ユニコーン企業を生む国」「ノーベル賞受賞者を生む国」を
教育の成功モデルにすると、
教育政策はどうしても経済的に目立つ成果を生み出す人材に偏ります。
しかし社会には、優れた医師もいれば、保育士も、教師も、塾講師も、技術者も、研究者も、
公務員も、職人も、芸術家も、地域を支える人も、家族やコミュニティを支える人も必要です。
そして、彼らの貢献は必ずしも
「経済的生産性」や「イノベーション」という言葉では表現できません。
「生産性を高めよ」「イノベーションを起こす人間を増やせ」という教育政策が過熱しすぎると、
逆に、それ以外の普通の人間の価値を低く見積もる危険があります。
教育の成果を「どれだけ稼げる人間をつくったか」だけで測るのも、
「どれだけイノベーションを起こしたか」だけで測るのも、教育の意義を狭くしてしまうのです。
自戒を込めて申しますが、学校も塾も、
ともすれば思考停止気味に「○○な人材を育てます」というスローガンを掲げがちです。
しかし、その「○○な人材」の意味するところが、
経済的な価値のある人間というジャンルにのみとどまっているのであれば、
少し寂しいと思いませんか?
貴塾の生徒さんの、かわいい姿や笑顔を想像してください。
あなたが塾経営で志したのは、彼らを優秀な経済活動のコマにすることだったのでしょうか。
違いますよね。
純粋に、彼らの幸せと、豊かな人生を願ったはずです。
さらに「人材」という言葉は、どうしても
「社会が必要とする人間」「企業が求める人間」「経済に貢献する人間」
といったニュアンスを帯びます。
すると、「この子は何に興味を持っているのか」ではなく、
「この子をどんな人材にするか」という視点になりかねません。
しかし、教育の主語はあくまで子どもです。
繰り返しになりますが、経済的生産性の高い人材や、イノベーター人材、
およびそれらを育てることを否定しているのではありません。
「教育の成果を、あらかじめ定義された人材像に回収してしまうこと」に
疑問を呈しているのです。
本来、教育とは、子どもが何者になるかを
自分で考えられるようにする営みだったはずなのに、
「あなたは将来、こういう人になりましょう」と、
大人が先に「望ましい人間像」を設定してしまう……
これは、「イノベーターを生まない日本の教育」を批判することと、実は裏表です。
イノベーターとは、既存の価値観や「こうあるべき」を疑い、新しい問いを立てる人ですが、
学校や塾が「イノベーターを育てます」と言い始めた瞬間、
「イノベーターとはこういう人間です」というモデルが設定されます。
「既存の枠にとらわれない人」を、教育者側が用意した新しい枠の中で育てようという
かなり皮肉な状態です。
そもそも子どもたちの多くは「○○になるため」に学校に来ているわけではないと思います。
学校や塾が「社会を変える人材を育てます」と掲げたとしても、生徒本人は、
「今日は友達とくだらない話をしたい」「数学が面白い」「絵を描いていたい」
「生き物を観察したい」「何となくこの先生が好きだ」というところから学び始めるものです。
そこから結果として、研究者になる人も、起業家になる人も、教師になる人もいます。
あるいは、別に何者かにならなくても、
それでその子が自分の人生を少し豊かに生きられるようになったなら、
教育として十分に意味があるはず。
学力とは本来、世界を理解し、自分で考え、自分の人生を選び取るための力でもあります。
そのうえで、その力を使って新しいものを生み出したい生徒には、
そのための余白と機会を与えればよいのではないでしょうか。
全員を優れた経済人やイノベーターにするのではなく、
「イノベーターになりたい人が、イノベーターになれる教育をする」。
そのくらいの距離感が、教育と経済の健全な関係なのかもしれません。
【今回のまとめ】
・経済的生産性の高い人材や、イノベーターはすべての子どもが目指すべき姿なのか
・子どもたち自身が望み、「なりたい自分になれる」教育を忘れないでおきたい
