今回は年内最後のお届けということで、
「教育とは」「塾とは」「教えることとは」という根源的なテーマで
みなさんと一緒に考えてみたいと思います。
さて、先日より音楽クリエイターのヒャダインさんが綴った
学校の「体育」に関するエッセイが話題を呼んでいますね。
体育の先生が読む専門誌・月刊「体育科教育」の中で、
体育教師と現在の体育教育のあり方を全否定する内容で投稿されたのです。
書いたほうも、(体育に肯定的なのが前提であるはずの)載せたほうもすごいと、
驚きの声が多数あがっています。
記事の詳細についてリンクを貼りたいのですが、
有料誌の記事をそのまま転載するのは問題がありますし、
「ヒャダイン 体育 togetter」などでSNS検索なさってみてください。
ヒャダインさん自身は運動がとても苦手で、
「体育の授業も体育の先生も大嫌いだ!」という激しい主張でエッセイは始まります。
以下、要約するとだいたいこんな感じでしょうか。
「運動が苦手な子は授業で恥をかかされ続ける」
「運動が得意な人間である体育教師に、その苦しみは理解できない」
「運動が苦手な子に、できるようにさせようなどとするのは思い上がりである」
「運動ができない子が、できるようになることが善であるという前提がおかしい」
「体育とスポーツは似て非なるもので、体育がスポーツ嫌いを生み出している」
「とにかく、運動ができない子はもうほっといてほしい」
SNS界隈はヒャダインさんに賛同する声が圧倒的ですが、
もちろん、賛否両論あることでしょう。
ここから、私たち塾人は何を考えるべきでしょうか。
上記の要約における運動(体育)を、
そのまま一般教科や受験に置き換えてみると分かりやすいと思います。
特に、「運動(勉強)が得意な人間である先生・塾講師に、その苦しみは理解できない)」
と考えるならば、それは重く受け止めないといけないかもしれません。
少なくとも、先生や塾講師になろうかという人たちは、
勉強が得意だったり、好きだったり、人よりうまくできたり、
といった子ども時代を過ごしてきた人が多いはずです。
授業で先生に当てられても、すぐ答えることができたでしょう。
一方で、「当てないで欲しい」と必死で気配を消して目を伏せたり、
「答えられずに恥ずかしい思いをした」というクラスメイトもいたはずです。
そんな経験をしたことがありますか?
その気持ちがどれだけ分かりますか?
それをどれだけ授業に生かせていますか? ということですね。
逆に、勉強は得意だけど体育は苦手だったという人もいらっしゃるのではないでしょうか。
その意味でヒャダインさんの主張に共感できる人も多いでしょうが、
そういう気持ちを勉強に対して抱いている子がいると考えれば、
痛いほどよく分かるのではないかと思います。
つまり、運動にせよ勉強にせよ、それが得意な人はその楽しさを知っているから、
それを他人(子どもたち)にも共有してあげたくなるんですよね。
動機は、本当に「善」なんです。
でも、山登りが好きな人にどれだけ登山を勧められても、嫌いな人は嫌いですよね?
ジョギングが趣味の人にマラソン大会に誘われても、
「絶対出たくない」と思う人だっていますよね?
だから、私たちもエゴの押し付けになってはいけないのだと思いますし、
「運動(勉強)ができない子が、できるようになることが善であるという前提がおかしい」
というクリティカルな発想も、深く考えさせられます。
そう考えると、私たちが良かれと思ってやっていることは、
本当に子どもたちが望んだことなのでしょうか。
「子どもたちは、成績を上げたいから塾に通っているんだ」と言われれば、
もちろんそうだと思います。
しかし、さらに深く考えてみれば、その「成績を上げたい」というのも、
「成績を上げないと困るから」「周りや社会がそれを求めるから」という外圧が
前提にあるからに過ぎないのもしれません。
つまり、やりたくてやっているわけではない、
もっと言えば、私たち大人が「子どもたちは成績を上げたいと思っている」と
勝手に決めつけている部分がないか、自戒しつつ自問したいところです。
受験も、成績表も、偏差値による優劣の比較もない世界線で、
それでも「成績を上げたい」と言う子が果たしてどれだけいるか。
本来は、それこそが純粋な学習意欲であり、探究心であり、
知的好奇心であり向上心であり、「教育」とはそういうことだと思います。
だとすると「体育がスポーツ嫌いを生み出している」というのも、
「学校や塾での勉強が、『学ぶこと』嫌いな子どもを生み出している」と
考えることができるかもしれません。
「大人になってから勉強が楽しくなった」「自発的に学ぶようになった」
という人は多いと思います。
それはつまり、周囲の求めなどの外圧ではなく、
純粋に自分の中から沸き起こってくる学習意欲に基づく学びになっているからでしょう。
学校や塾が、子どもたちにそういう思いを抱かせてあげられていないのだとすると、
これも思わず考え込まずにはいられません。
塾のミッションは、確かに成績向上や志望校合格です。
民間の営利企業としてこれを事業とし、需要と供給も成立しています。
経済活動としてはそれで良いのでしょう。
でも、きっと塾経営者の誰もが、塾という営みにそれ以上の価値を見出していると思うんです。
主張ややり方はそれぞれ違えど、
「教育」に対して何らかの思いを抱いてこの仕事をしていると思うんです。
年の瀬に、そして新年に向けて、「教育とは何だろう」、
「自分が提供したいものは何だろう」、「子どもたちは何を求めているのだろう」という原点や、
「知らずしらずのうちに、道がずれてきてないだろうか」というふりかえりに、
思いをはせてみませんか。
お互い、「いい塾」を作っていきたいですね。
【今回のまとめ】
・勉強が得意な人間の論理だけで、ものごとを考えない
・改めて、理想とする教育のあり方を見つめ直してみよう