教育や子育てにまつわる、大きなニュースが続いていますね。
まえがきで触れたプロ野球チーム監督による暴行事件もそうですが、
同志社国際高校の転覆事故の件も大きく注目を集めています。
さらにここへ来て、文科省が同校の活動を「教育基本法違反」と認定したことで、
賛否両論の嵐が吹き荒れているようです。
以下の記事は、ここまでの流れとそれぞれの意見について、
非常に分かりやすくまとめられていますので、ぜひご一読ください。
<辺野古事故 文科省『政治的中立性』違反認定に賛否 『平和教育』どうあるべき?>
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/900191605.html?page1
当メルマガでは、文科省の対応等について賛否は論じません。
(そもそも、そういうことが目的のメルマガではないですしね……)
ただ、今回話題に挙げられている、教育の「中立性」という概念は
考えてみてもよいのではないかと思います。
いや、むしろ、塾経営者こそ考えてみるべきテーマではないでしょうか。
教育に携わっていると、「良かれと思ってやっていること」「正しいと信じてやっていること」が、
どこまで許容されるのかを考えさせられる場面があります。
特に近年は、塾でも、
学力だけでなく価値観や生き方に踏み込むような指導が増えてきました。
いわゆる人間教育的な取り組みを大事にする塾ですね。
だからこそ考えてみたいのは、教育者という立場が本質的に持つ「影響力」です。
生徒さんにとって指導者(塾の先生)は、単に知識を伝える存在ではありません。
「評価する側」であり、「何が正しいかを知っている側」でもあります。
この関係の中では、言葉の内容だけでなく、
何を強調し、何を前提として語るかといった細部まで含めて、
大きな影響を持つのは当然です。
教育心理学では、教師の期待が学習者の成果に影響するという
「ピグマリオン効果」が広く知られています。
これは言いかえれば、指導者の内面にある前提や価値観も、
無意識のうちに生徒さんの行動や結果に反映されるということです。
極端な例を出せば、「人を蹴落としてでも自分が上に行くことが正義」という
先生のもとで学び、その期待を寄せられながら学べば、
生徒さんもそういう価値観になりやすいと言えます。
つまり、教育においては「何を教えるか」と同時に、
「どのような価値観のもとで教えているか」が不可避的に伝わっているということで、
この構造がより強く現れるのが、個人塾や中小規模の塾です。
大手塾であれば、カリキュラムや指導方針がある程度標準化され、
組織としてのチェックも働きやすいでしょう。
しかし個人塾では、良くも悪くも「塾長の教育観」がそのまま教室の空気になります。
どの教材を使うのか、どの学校を勧めるのか、努力をどこまで求めるのか。
その一つひとつに、個人の思想や経験が色濃く反映されるのです。
そもそも、個人塾の経営者の多くが、組織の価値観と自分の教育観が合わず
「自分らしい理想の教育」を追い求めて独立開業しているのだから、
当然と言えば当然かもしれません。
もちろんそれは、個人塾の大きな強みでもあります。
画一的ではない柔軟な指導、目の前の生徒さんに合わせた判断、理念の一貫性。
これらは大手さんには出しにくい価値です。
しかし同時に、それは「無自覚な影響力がそのまま伝わりやすい構造」でもあります。
例えば、進路指導の場面を考えてみてください。
「この学校が良い」「このルートが望ましい」といった助言は、
塾では日常的に行われています。
しかし、その「良い」の中身は何でしょうか。
進学実績なのか、知名度やブランドなのか、校風なのか、独自性なのか。
その基準は多くの場合、塾長自身の価値観に依拠しています。
確かに、経験に基づく助言は必要です。
ただし、それが唯一の正解であるかのように伝わってしまうと、
生徒さんの選択肢は見えない形で制限されます。
私たちはちょっとしたアドバイスのつもりであっても、
生徒さんや保護者さんはそれを「専門家の専門的見解」として受け取るため、
影響は想像以上に大きいのです。
私たちは、そこにもっと畏怖の念を持つくらいでちょうどよいと思います。
また、学習方針においても同様のことが起きます。
「基礎を徹底すべき」「先取りが重要だ」、
あるいは「主体性が大事だ」「寄り添って伴走すべきだ」――
これらはいずれも一理ある考え方ですが、どれをどの程度重視するかは
本来、個々の生徒さんによって異なるはずです。
それにもかかわらず、指導者の信念が強いほど、
それが「あるべき姿」「正解」として提示されやすくなります。
特に難しいのは、多くの場合それが善意から出発している点です。
「この子のために最適な道を示したい」という思いがあるからこそ、
言葉には熱がこもってしまいますが、その熱量が高いほど、
生徒さんに与えられるのは「選択」ではなく、実質上の「誘導」になってしまうでしょう。
では、どうすればよいのでしょうか。
重要なのは、「中立であろうとすること」ではないと思います。
塾は公教育ではないのですから、中立性が大事なわけではありません。
それに現実として、価値観を完全に排除した指導は不可能です。
だからこそ必要なのは、「自分の教育観が影響している」という前提を
客観的に自覚することに尽きると思います。
例えば、「私はこう考えているが、別の見方もある」、
「この方法にはこういうメリットがあるが、別のやり方も成立する」といった形で、
複数の視点を伝えてあげることもできるのではないでしょうか。
「英語の読解力向上は多読が効果的だ」と思っていても、
精読方式の学習のほうが相性がよい生徒さんだっているはずです。
自分が良しとする学習法以外を一方的に否定したり、
生徒さんの選択肢から除外したりすることが本当に適切なのか、
生徒さんの利益を最大化できているかは、客観的に考える必要があると思います。
一方的な押し付けは、指導やサポートではなく「布教」です。
その観点で考えると、「どちらが正しいか」ではなく、
「自分は何を重視したいか」を生徒さん自身に問い返すことも有効かもしれません。
これは単なる配慮ではなく、教育の本質に関わる問題でもあります。
なぜなら、最終的に社会に出ていくのは生徒さん自身であり、
意思決定をするのも生徒さん自身だからです。
私たちは生徒さんの人生に責任なんて取れないし、
そもそも責任を取れると考えること自体が思い上がりなのかもしれませんね。
個人塾は、その構造上、塾長の教育観が色濃く出る場です。
それは他にはない価値である一方で、無自覚であれば強い偏りにもなり得ます。
そうした自身の影響力を鑑みることなく、価値観を一方的に押し付ける「布教」的な教育は、
ある意味で生徒さんとの共依存関係を生み出しかねません。
生徒さんは指導者に依存し、指導者もまた「依存されている自分」に自己有用感を得て、
「自分に依存してくれる生徒さん」という存在に依存していきます。
「良かれと思って」は、教育の出発点として不可欠です。
しかし、その善意がどのように作用しているのかを見つめ直すことも必要です。
「何を教えているか」だけでなく、「どのような前提で教えているか」を
常に問い直す姿勢を忘れずにいたいですね。
【今回のまとめ】
・個人塾は、塾長の思想や経験がそのまま反映されやすい
・だからこそ、自分の価値観が生徒さんに与える影響を、もっと重く捉えるべき
